文藝春秋 ’91.10月号
小さい時から、私は”双子”であった。
相棒の弟(名前を亨という)は生後六カ月で腸閉塞で死んだという。私はその弟を、たった一枚残っている、二人で並んで写っている古めかしい写真でしか
知らない。だがこの弟は時がたってもいつまでも私の心から消えようとはしなかった。どうやら弟は漫画家になりたかったらしい。そこで兄の「紘」は
もし漫画家になれたらペンネームは必ず「中原とほる」にしようと思っていた。
とほるは小さいときから漫画を描いていたが回りの人にちょっと評判になるぐらいで、紘の方はちゃんと才能をわきまえていて、教育学部、医学部と全部で
十年もふらふらしたが、なんとか二十八歳で医者として社会にとびだした。
四国の病院に勤務しだして間もないころ、ある午後の外来診察。勤務中なのに女房殿より電話、「東京から電話があってどうやら父ちゃんの漫画が佳作に
なったらしいよ」。懸賞に応募し始めて十年、五回目にしての事なのに、「なんだ特選じゃなくって佳作かあ」と何となく白けた気持ちになったのを今でも思い出す。
しかし佳作とはいえ、「少年マガジン」の懸賞、四百余人の応募者の中から三番目に選ばれたのだ。同僚のドクター、看護婦さんたちのお祝いの言葉で、
仕事中なのに私の頭はそれからしばらくの間、プッツンしてしまったのである。
ありとあらゆる知人に電話報告、東京での授賞式には家族全員で参加。ちばてつや先生より「おめでとう、君たちは今日からプロの漫画家です」のお言葉に
目の前は無数のお星さまでいっぱい、授賞式の後の二次会、三次会、四次会……、朝方まで、日ごろは見たことも会ったこともない漫画家の方々と始めから終わりまで
漫画の話ばっかり。この夜を境にして私は抜け出ることのやっかいな禁断の園に足を踏み入れてしまったのである。佳作なのに本誌掲載ということになり、
遂には地方新聞に写真入りでとりあげられ、わが世の春を謳歌する三十八歳の中年男、昭和五十六年のことであった。
それからしばらくの間、投稿する毎に佳作、入選と続き、遅咲きの花は咲くときは大きいなどとうそぶいていたが、鼻っ柱を折られるのに三年とかからなかった。
下書きの段階で編集者から何度も描き直しを命じられる。そしてここが大事なとこであるが、私は売れっ子の漫画家でもなんでもない、吹けば飛ぶような泡のような
無数の漫画家の卵の一人にすぎない。こちらからアタックを止めればその時点で漫画家「中原とほる」は消えてしまうのである。この辺が一度医者になったら
一生医者でございという世界とは違う厳しいところである。過去の栄光や医師免許なんぞ何の役にも立たないのだ。そしてやっとゴーサインが出て清書しても
必ずしもこれが掲載されるとはかぎらない。勤務医としての仕事(四百床のベッドの総合病院のまがりなりにも整形外科のボスである)の合間にするのだ、
うまくいっても一つの作品が出来るのに半年はかかる。こうして発表の場も少年誌から青年誌「コミック・モーニング」に移り、現在までに十編とちょっとが作品として
世間の目にふれてきた。塵も積もれば山となる、いや汗と涙の結晶なのだ。その間私の前を、特選を受賞してたった一度輝いただけで消えていった人、今では
はるか遠くを走っている第一線の漫画家等、色々な人が通りすぎていった。ほとんどが二十代の人である。三十代は年寄り、私などは化石といっていい。
それでも私は細々と漫画にトライし続けているので、結構思わぬところから自分の漫画以外の仕事の注文がくる。友達の医師グループや、県医師会からの作品の
依頼で色々な挿し絵や冊子を描かせてもらう。
私に対しての一番足もとを見透かした有難い忠告がある。「いいですか、間違っても医者を止めたらいけませんよ。医者で漫画を描いているからいいんですよ。
医者でない漫画家のあなたなんて誰も振り向いてはくれませんよ」。わかっている。そんなことはわかっているのだ。だが今でも、誰も描いた事のない新しい
大長編漫画を発表し、世の中が私の漫画の話でもちきりという時代がいつかは来るのだと確信(妄想)し、又その漫画の構想を練っていると朝まで眠れない夜がある。
「紘」は着実に年を取っていくが「とほる」はいつまでたっても若さと夢を失わない。あたりまえである、彼はいまでもあの古い写真に写っている
亨のまんまでいるのだから。