新居浜市医師会報 430号 平成6年6月1日発行 p.7398 ひろば ( 転載許可済み )
長い人生の中には、私のような人間でも希ではあるが、あっというような人達に出くわすものだ。
●小学時代、田舎ではあったが大相撲の巡業が来た。幟のいっぱい立った混雑の中で、友達と一緒に
大勢の力士たちに見とれていたら「こらそこのけ!」と濁声とともに頭をごつん。振り返ってみると、大きな
付け人の後ろにひときわ目立つ雲つくような大男。物心ついてはじめて出会った有名人は相撲取りの大内山、
頭の痛さとともにいまでも記憶に残っている。
●最初の大学がいやいなり、在籍のまま親から離れて広島の下宿で医学部をめざし、二度目の受験下宿生活時代。
その下宿の息子さんが高三でやはり受験生、時々二人で英単語の覚えっこなどをする。彼は音楽が大好きで、その頃
私もギターに凝っていたので一緒に弾いたりしたが、彼はそれだけでおさまらず、ラジオの音楽番組に自分の作曲した
ものを投稿して、そのプログラムの常連になり、時には局の方も(一高校生の)彼の特集を組んだりさえした。
お父さんは九州の大学の教授、お兄さんはジャズピアノのプロ、お母さん(すなわち下宿のおばさん)はお華のお師匠さん。
結局彼は地元の大学、私も何とか岡大合格、そのまま6年が過ぎた。医師国家試験が広島であったので、なつかしくなって
試験の後でおばさんに会いに行く。「たくちゃんは元気ですか?」という私におばさんは「いま息子は歌を歌っているのよ」
といってレコードを聴かせてくれる。恥ずかしながら私は今では有名なその歌を知らなかったので、おばさんはちょっと
不満顔。それから後ずっと、酒の関での私の自慢話の定番はこうである。「俺がな、昔下宿していた家の息子さんは、かの有名な
歌手で作曲家の吉田拓郎だぞ、どうだ、まいったか!」
●医師になって2年目のある日の外来、なんとプロレスラーのアントニオ猪木さんが患者としてやってきた。母趾の
蜂窩織炎であった。当然サインをねだった。忙しそうで、ついてきた別のレスラーは明らかに迷惑そうな顔をしたが、本人は
出した用紙に大きく「闘魂」と鮮やかに書いてくれた。やったー、本物の猪木だというわけで、看護婦さんが我も我もとにわかの
サイン会。あのとき私はどんな治療をしたのかどうしても思い出せない。
●私は趣味で漫画を描いているので、入選すると東京の出版社の授賞式に出れる。そこで雲の上の存在、大漫画家・ちばてつや
先生から直接賞状が貰える。握手していただいとときのあの暖かい大きな手の感触は今でも覚えている。「あなたの作品、あそこを
こう直せばもっと大きな賞になっていましたよ」総評で「みなさんも彼の作品を見て、ストーリーの立て方を勉強しましょう」
天にも昇らんばかりのお言葉は、その時頂いたサインとともに私の大事な思い出である。
●先輩星島先生の病院の記念祝賀会に小説家・渡部淳一の講演が行われ、そのうち上げに私もよんで頂いた。ぴかぴかの
文化人と同席してるんだと思いながら隅でおとなしくしていると、隣の先生が「渡部先生、彼も漫画を時々発表しているのですよ」
私はしどろもどろで近況を報告。先生は私をじっと見て「いま何歳ですか?」いくつだと答えるとしばらくじっと考える様子。
そうだよな、これから世に出る俺は年食いすぎてるよな、一人自分で納得したほろ苦い一夜であった。
●久しぶりの東京に来た何日目かの朝。早く起きたので家族で朝の散歩。旅館は半蔵門の近く。早朝なのでさすがの大東京も
私の家族以外は人気がない。目につくのはジャンパー姿の男が二三、ちらほら。携帯マイクを持って「いま4人ずれの家族が歩いて
いるだけです」と聞こえてくる、いい年からげて無線の趣味かよ、ごくろうなことだ。交差点で立っていると、黒塗りの高級車が
数台、列をなしてゆっくりと我々家族の前を通りすぎた。「あれー、もしかしたら」と胸騒ぎ。ジャンパー男が音もなく寄ってくる。
「どこから来られましたか、何をされていますか?」答えると「いま通られた方は皇太子様です、これからすぐにあとに天皇陛下が
通られます、手を振ってくださいよ、ご返答されますよ」何が何だかわからないうちに又黒塗りの車の列、目を皿のようにして見る(私たちから2メートルと
離れていない)。二番目の車に、私の人生の中でこれ以上有名な方はおられないだろうと思われる方が確かに見える。何かにつかれて
私たち家族は手を振る。するとなんということであろう、陛下は(今の天皇陛下であらせられるぞ)私たち家族のためだけに、
笑顔で車中より手を振っておられるではないか!まだ車影が消えていないのに我々家族は手に手を取って歓喜する。ジャンパーの
男たちは満足そうに消えていった(と私には思えた)。この日一日中、私たちは興奮が冷めやらずいっぱしの愛国者でい続けた。